7月17日 『釧路の発展成長と中国』釧路新聞

7月18日 釧路新聞社承諾済(担当 馬場)

『釧路の発展成長と中国』 北極海航路注目 ビジョン再構築を

 今年322 中国江蘇省人民対外友好協会から6名の訪問団が来釧したことは、すでに全国で報道されたのでここでは言及しない。まずは釧路日中友好協会について説明させていただきたい。当協会は日中友好7団体と呼ばれる日本と中国両国の公式友好団体のひとつ(公社)日本中国友好協会(会長 丹波宇一郎)の地方組織にあたる。当協会の歴史は古く日中国交正常化以前1952年釧路市に設置され200412月に解散した一代目組織がある。当時日本の国策に基づき発足したもので中国へ水産品、木材、硫黄を輸出していた。
 現在の協会2011年(社)釧路青年会議所と釧路商工会議所の一部協力で新たに発足した。その背景は2011釧路港が国際バルク戦略港湾として指定され東日本を代表する国際港湾に発展することが予測されたことがある。各国との外交チャンネルを構築し道内を代表する国際港湾都市として釧路の発展が道東、日本の産業発展に大きく貢献できると考慮したからである。当時 草野満夫労災病院長(当協会初代会長)が釧路に着任したという偶然が当協会発足の大きな始動に繋がった。草野氏はガンのセンチネル治療における日本の権威であり、江沢民氏の母校たる名門の上海交通大学医学部客員教授であったからである。時を同じく日中関係は政治的に悪化し活動は非常に困難であったが、草野氏の「上見君まさに今がチャンスだ」これが私の原動力となった。

 さて釧路の経済動向は2013101日日銀短観で那覇+25)、釧路(+11)、全国(+5と釧路は国内第2位の景況感を叩き出した。ハローワークの有効求人倍率は201410月に1.0倍を超今では深刻な人不足である。つまり釧路経済は今まさに好調だ。

 かつての原野、丘陵、港湾に忽然と巨大な太陽光発電所や流通センター、大規模な天然ガス基地、植物工場が出現している。これらは数十億円、数百億円単位で投資され、いよいよ都心の再開発もはじまった。

 しかし中国から釧路への本格的な投資は依然皆無である。従って日本の大企業による釧路への旺盛な設備投資が釧路をプラス成長させているのである。さらに2017年長距離トラック輸送の規制が釧路の優位性を高めた。それまで苫小牧港が北海道の物流拠点として道内を網羅し道東は帯広が二次流通拠点であった。しかし今や道東の物流拠点は釧路港である。通行料無料の道東道は帯広の流通拠点の地位をただただ下げるだろう。釧路経済の好調は釧路の自律的な動きである。

 そこに「北極海航路」というまた大きな機会が釧路に舞い降りてきたのである。

 さて100年以上前、石川啄木は「釧路は北海の要港なり。」と表現した。1900年鉄道もない釧路に中井三郎兵衛氏(現在の日本紙パルプ商事)が資金を拠出し設立したのが、日本製紙釧路工場の前身「前田製紙合名会社」(道内最初の製紙工場)である。これは前田正名氏が明治政府に提唱した殖産興業政策を自らかたちにしたものであった。原料、労働力を釧路に求め、将来的に北米に輸出を構想していたのかもしれない。当時の釧路は単なる原野で、そこに実に壮大なる計画を実現した。この大事業が旧丸三鶴屋百貨店の出店に繋がるなど、その影響は大きい。明治の日本人は世界の大勢をみていたわけだ。さて釧路の前田製紙に投資した日本紙パルプ商事が、100年後今度は釧路市音別町に100億円を投資して釧路市最大の釧路音別太陽光発電所を実現し、エコパワーJP(資本金122,250万)は私の経営する上見ビルに置かれている。

 私はビジネスの基本は「知恵、人脈、健康」の三要素であると思っている。孟子の言葉にも「天時不如地利 地利不如人和」というのがある。いまや日本の3倍以上となるGDPとなった経済大国中国が、その新たな経済政策に「一帯一路」構想を掲げ、釧路沖を通る北米航路、北極海航路は重要性が増している。そのなかで中国政府が釧路港に注目したことは不自然ではない。むしろこの機会を大いに活かし、日本民族自らがこの釧路の発展成長ビジョンを再構築することが求められる。

 つまり単なる地方都市から「北の釧路、南のシンガポール」が世界の大勢である。経済統計みても釧路にもはや衰退という2文字はない。この経済環境の変化を理解し自ら前進する者だけに未来は明るいと思ってよいと思う。

2017年7月17日 釧路新聞 文化面記事より(釧路新聞社 7月18日承認済)

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