会長 挨拶文

釧路市の発展の盛衰は釧路港の主要取扱貨物に象徴的に表れています。

同時に釧路市の発展と釧路港は一体の関係にあります。

1899(明治32)年の釧路港の開港は、安田財閥による硫黄鉱山開発と硫黄の精錬、輸送のための蒸気機関の動力源として安田炭鉱(のちの太平洋炭鉱)が同時に開発され、最初は火薬の原料として「硫黄」を欧州向けに、さらに鉄道枕木として「原木」を北米と中国に輸出する目的ではじまりました。

1901(明治34)年、豊富な原木、漂白用の硫黄を原料に北海道最初の製紙パルプ工場 前田製紙合名会社(代表 元官僚 前田正名[1]のちの男爵)が釧路で「製紙パルプ」の生産をはじめ、それが現在の日本製紙釧路事業所の源流となっています。

さらに、「水産品」、「蝦夷鹿のつの」や「鹿革」の中国向け輸出が行われてきました。

戦後、アジア各国との交易を一度全て喪失しながらも、釧路港は日本最大の水揚げ漁港として発展し釧路の三大基幹産業といえば「水産」、「石炭」、「製紙パルプ」として広く知られることとなりました。

そしていまや北海道最大の穀物輸入拠点 釧路港(2020(令和2)年農水省データ 釧路港88.4万トン、苫小牧港74万トン)と、名実ともに北海道唯一の「国際バルク戦略港湾」として、新たな成長ステージへと進化しはじめています。

中国の諺に『お金持ちになりたければ、まずは道路を作らなければならない。(要想富 先修路)』というものがあります。

2024(令和6年)度中に、釧路は道東道(釧路西IC~釧路空港IC~阿寒IC)の開通によって、国際バルク戦略港湾(水深14m)、釧路空港、鉄道が一極に連結します。

これは国内でも珍しい、事実上の陸海空の物流の一大結節拠点が実現することを意味します。

2017(平成29)年から欧州~釧路~上海の北極海航路による巨大なバルク貨物船(中国COSCO社)の就航以来、日露関係の問題で一時停滞しつつも、欧州とアジアを結ぶ新たな航路として着実に継続しています。

アジアと欧米との航路で、アジアで最も最初に出会うファーストポートが釧路港になります。

2018(平成30)年 中国の国策『一帯一路』における北極政策で釧路港が『北の釧路 南のシンガポール』として標榜されるに至りました。

このような経済環境や地政学的見地からも、また中国との複雑な政府間事情を考慮しても、日中間の経済交流は必然であり、日中双方の民間窓口として釧路日中友好協会の存在意義は不可欠であると信じるものです。

「以民促官」民をもって官を促す。たとえ政府間に困難があっても民間の交流を盛んにして状況を変えてゆくという考えを第一に、釧路の経済成長の為にも当協会を運営して参りますので皆様方の変わらぬご支援ご支持を賜りますよう、引き続きお願いいたします。

会長 濱屋宏隆(2024年9月現在)

前会長 挨拶文

釧路日中友好協会は日中友好7団体と呼ばれる日本と中国両国の公式友好団体のひとつ(公社)日本中国友好協会の地方組織にあたる。

当協会の歴史は古く日中国交正常化以前の1952年釧路市に設置され2004年12月に解散した一代目組織があり、当時日本の国策に基づき発足したもので中国へ水産品、木材、硫黄を輸出していた。

現在の協会は2011年(社)釧路青年会議所と釧路商工会議所の一部協力で新たに発足した。
その背景は2011年釧路港が国際バルク戦略港湾として指定され東日本を代表する国際港湾に発展することが予測されたことがある。各国との外交チャンネルを構築し道内を代表する国際港湾都市として釧路の発展が道東、日本の産業発展に大きく貢献できると考慮したからである。

当時 草野満夫労災病院長(当協会初代会長)が釧路に着任したことが当協会発足の大きな始動に繋がった。
草野氏はガンのセンチネル治療における日本の権威であり、江沢民氏の母校たる名門の上海交通大学医学部客員教授であった。
この時と人との偶然が重なり当協会発足となったのである。
(2016年 第6回定期総会 中村圭佐 会長あいさつ文)

トピックス

 9月5日 『中国港湾物流事情の最新動向』 報告者 福山秀夫氏

11月10日 釧路での講演会開催に向けた事前公開資料になります。

注意事項~下記資料の扱いについて、この資料の第三者の使用は必ず福山秀夫氏の同意をいただくことを条件として無断転載を禁じます。






 































































本人 許諾済み公開資料。2025年9月5日付け

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